こんにちは

南大隅町の台場公園に残る西欧列強の艦船襲来を予期し備えられた砲台跡

鹿児島県指定文化財「根占原の台場跡」について紹介していきます。

「かごしま近代化遺産調査事業」に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(幕末~明治初期における「旧薩摩藩の近代化遺産」)から、一部を引用します。

根占原台場は,1847年に築かれた台場で,薩摩藩の中でも初期に築かれた台場の一つです。薩摩藩の台場では,薩英戦争の前後に新型の砲架が採用されますが,本遺跡では採用されなかったため旧式の形状を留めた台場です。

根占原台場が築かれる前の19世紀初頭の薩摩藩近海には,モリソン号事件をはじめ西欧諸国の艦船が頻繁に出没し,対外的な緊張が高まっていました。

※モリソン号事件とは、1837年、日本人漂流民7人を乗せたアメリカ合衆国の商船を、イギリス軍艦と勘違いし、日本側砲台が砲撃した事件

当時藩主であった島津斉興(なりおき)は,これに対応するために1844年の松山台場(指宿市山川)をはじめとして,指宿・山川・佐多・小根占など各地に台場を築かせました。
小根占に築かれた台場は,薩摩藩の中でも初期に築かれた台場の一つで,1847年に完成されました。
1853年には,前々年(1851年)に藩主に就任した島津斉彬(なりあきら)が大隅・日向各郷を巡視した際に小根占の台場も巡視したことが,現在の錦江町田代の花瀬自然公園にある1921年に建設された記念碑に記載されています。

1862年に生麦事件が起こると,イギリス艦隊の砲撃に備えて台場の拡幅構築が行われ、その際に築かれたのが現在も残る石垣とされています。

明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると,政府軍により鹿児島各所の台場が閉鎖されてしまいますが、この台場が閉鎖されたかは定かではありません。

根占原の台場跡の説明書

【現地説明書き】
根占原の台場跡(鹿児島県文化財指定 平成30年4月)
根占砲台は、1840年代後半から50年代初頭に築かれた初期砲台群の中では、県内に残る唯一のものである。
通称「台場跡」と呼ばれ、幅4m、高さ3m、長さ60mの御影石(みかげいし)の石垣で、中央部分に砲身を構えた2つの凹部(おうぶ)がある。
幕末期、相次ぐ西欧列強の来航に危機感を強めた薩摩藩は、海岸に次々と砲台を築いた。
錦江湾口の要衝(ようしょう)に位置する南大隅には、対岸山川に次いで、1847年に伊座敷砲台、原砲台、瀬脇砲台、上ノ山砲台が築かれている。
1862年に発生した生麦事件の後、薩摩とイギリスの間が風雲急を告げるころ、南隅4ヶ所の郷土を含む300~400人の薩軍が来て、拡幅構築にかかった。
石は、全部海岸にある御影石である。
海岸からやや山手に上がった所に火薬庫を作り、作業隊の兵士たちはそこに寝泊りしていた。
今、火薬庫の跡は無いが、集落の人は、火薬庫のあった場所を「エンシュ-グラ」(煙硝庫)と呼んでいた。
薩英戦争の際、発射する機会はなかったが。錦江湾沿岸に数十の台場が構築された中で、当時の台場として原型をはっきりとどめているのは、この台場だけという貴重な史跡である。

【台場建設当時の時系列】
1839年 相次ぐ西欧列強の艦船来航に危機感を強めた斉興は、洋式砲術を学ばせる。(藩主:島津斉興)
1844年 台場の構築が始まる
1846年 鹿児島市に鋳製方が築かれ、洋式の青銅砲、洋式流の製造を行っていた。
1847年 根占原台場構築
1851年 島津斉彬 藩主に就く。反射炉建造に着手。
1852年 沿岸各地の台場を改築する命令を出す
1853年 浦賀(うらが)沖に「黒船」でペリ-が来航
1854年 日米和親条約締結。「攘夷」運動の始まり。
1862年 生麦事件。イギリス艦隊の砲撃に備えて各地の台場(根占原台場を含む)の拡幅構築が始まる。
1863年 薩英戦争勃発(藩主:島津忠義、国父:久光)