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中世の山城『志布志城の歴史』が面白い

志布志埋蔵文化財センターに設置してあります志布志城(内城)のジオラマを見ながら、鹿児島県文化財保護指導員の米元四郎さんに、国指定史跡志布志城跡についてお話を伺いました。

【志布志城の構成】

志布志城は、前川の河口にある四つのお城(内城、松尾城、高城、新城)を合わせた名前になります。 それぞれのお城に挟まれた谷合に、武士団が住んでいました。

【なぜ、そこに志布志城が築かれたのか】

志布志城が築かれた場所の選定については、次の三つ理由が考えられています。
① 前川という川の真正面にある海の中にある島が、台風とか荒波を防いでくれたこと
② 前川の河口部が、港として利用できたこと
③ 港があることで、経済力に繋がっていくこと
お城から見える前川の河口部が港として利用できるので、その港を抑えるために志布志城を自分のお城にしようと、この周辺の武将たちが争って支配していきました。
港があるっていうことは、経済力を握ることで、支配に多いに役立つんですね。

【最初のお城は松尾城】

歴史に登場する最初のお城は、松尾城らしいです。
しかし、いつ築かれたかという、正確な資料はありません。
南北朝時代の1300年代に、この松尾城が最初に登場します。
その後に、内城、高城、新城が築かれますが、ここは殿様がいる城ではありません。
これらは、砦的なお城だったっていうことが、わかっています。

【内城のジオラマで説明】

これは、四つの城(松尾城、内城、高城、新城)のうち、内城の模型になります。
この内城について、説明をしたいと思います。
内城は、中世山城ですから、皆さんがよくご存知の、石垣、水堀、天守閣というものはありません。
シラス台地先端部の山を、人工的に加工して、いくつもの廓を作って、お城にしてあります。
戦いがないときは、この山城の麓が殿様の館になります。殿様は、普段ここに住んでいるわけです。
戦が始まると、街の人や武士団が、ここの山城に立て籠もることになります。ですから、山城は恒久的な建物ではなくて、仮設的な建物が多かったようです。
江戸時代に入ると、全国のお城は一国一条例で、”殿様の居住以外のお城は全て廃棄せよ”ということになりますので、それからもう400年以上経っていますので、現地に行っても、こういう建物は残っていません。
発掘調査をして、建物の柱の後とか、幾つも検出できておりますけれども、あくまでも当時の状態を想像して、復元した模型ということになります。

【内城のジオラマで説明~土塁について】

志布志城の周りもシラス台地で、しかも標高も一緒なんです。ですから、隣の大地に物見櫓を築かれたら、お城の様子は丸見えになってしまいますので、建物内部の人の動きがわからないように、屋根の高さぐらいまであるような土塁がずっと回されたていました。
全ての廓に土塁が回っていますが、北西側が高くて南東側が低いから、平坦な面を作るのに、北西側は削り込んで、南東側は盛ってあります。その結果、削って残した土塁と、盛った土塁の違いがあります。
築城から700年、お城が使われなくなってから400年経っていて、北西側の浸食率が高いので、南東側にはほとんど土塁が残っていません。しかし、北西側の土塁はまだ残っています。
版築っていう方法で突き固めをするのですが、盛った土塁だから早く浸食されてしまって、南東側は残りが少ないということです。

【内城のジオラマで説明~防衛のための空堀について】

北東から南西に細長く伸びた舌状台地のうねを、東側に大きな空堀を取り、西側にも大きな空堀を取っています。例えば、ちょっと太めのフランスパンの2箇所に、溝を切ったようなことになります。
それは、シラス台地だったものに横断的な堀を入れることによって、一つ一つの廓が独立して、1個が落ちても、次の廓で守れるということです。
平坦だと1箇所を責められたら、いっぺんに簡単に攻略されてしまいますが、独立した廓だと一つの廓を落としても次の廓はまだ残ってるので、攻め手側は一旦堀底まで降りて、次の廓を落とさないといけない。なかなか、大変だったんです。
戦争で責められていない普段使いの時は、不便なんです。 「お-い」って声をかけられるぐらいの隣の廓であっても、一旦堀底まで降りて、ぐるっと回って、また廓に登っていかないと、物を届けられないことになります。
だから、まるっきり防衛のために設計をされたお城が、山城っていうことになります。

【内城のジオラマで説明~志布志城の見所】

志布志城の標高は、平均して50mぐらいの大地になります。
そして、西側の大空掘りの堀底から廓面まで、ほぼ垂直に15mぐらいの高さがあります。お城を作った当時の堀底はどこにあるんだろうと思って、発掘調査をしたら現在の堀底よりもさらに8m下にありました。
ということは、お城を創った当時の堀の姿っていうのは、真っ暗な狭い曲がりくねったもので、それが400年~700年の間にくずれて、今では明るくて広くて、安心できるようなV字型の堀の姿になっているということです。
現在の堀底の8m下にあるっていうことは、現在の15mと合わせて23mの垂直な深さがあったということです。
ここが、やっぱり1番志布志城の見所になるかなって思います。
その次に、ここに搦手と言うんですけど、お城の裏口になります。責められて、逃げないといけない場合に利用される。
ここも、現在残されている志布志城の見所になります。

【内城のジオラマで説明~武士団の屋敷跡】

志布志城の東側と南側は浸食率が高く、だんだん浸食されて緩やかな斜面になります。その緩斜面を利用して、武士団の屋敷が作られます。現在はもう少なくなり、 3~4件しか残っていません。
江戸時代から昭和の戦前ぐらいにかけて、昔の廓が、そのまま一般住宅として利用されていたということになります。
現在は車社会の時代になって、屋敷に車が登っていけないので、残っている住宅は少ないです。

【内城のジオラマで説明~籠城戦での水の確保をどう調達したのか】

お城は籠城戦になると、何日も立て籠もらなければいけないですが、そういう時に水はどう確保していたんでしょうか。
志布志城は周りを谷で囲まれていて、しかもその谷は、あちこちで湧き水が湧いていて『志布志麓湧水群』という湧き水の名前になっています。
立て籠もった兵隊たちは、闇に紛れて勝手の分かっている湧き水のところに行けば、いくらでも水は確保できたということで、お城の上には井戸は掘られていなかったらしいです。発掘調査しましたが、今のところまだ確認されておりません。
ただ1か所、ほとんど下に近いところに、井戸が発掘されました。

【内城のジオラマで説明~江戸時代の領主館と武士団が住んだ麓のその後】

江戸時代に入ると島津氏が鹿児島城下で政治することになり、各地の郷には城下から地頭(政治をする知事みたいな人)が派遣されます。地頭が住む館には、現在の市役所と警察を担うような機能で、御仮屋っていう役所が置かれます。
しかし、実際にその政治を行うのは、志布志麓に住んでいた武士団で、御仮屋を中心に武士団のすむ麓が構成される姿になっていきます。

【内城のジオラマで説明~明治時代の領主館と武士団が住んだ麓のその後】

明治に入ると、藩の政治は必要なくなり、お役所があった御仮屋の跡は、小学校に転用されていきます。それは、地頭が住んだ館の跡や武芸の鍛練をしていた広場が広くて、面積を確保できたからです。
鹿児島の町で1番古い小学校は、ほとんどがこの御仮屋の跡です。志布志小学校も、ここにできました。

【志布志城主の変遷】

志布志城の殿様は、肝付氏、楡井氏、新納氏、豊州島津氏、それから現在までつながってきた島津と、いろんな殿様が入れ替わり立ち替わり領主になっていきました。
その中で、180年間という長きに渡って、志布志を治めたお殿様が新納氏です。
新納の地名は宮崎県にありますが、新納氏が繁栄をしたのは志布志ですので、全国の新納さんのルーツは志布志ということになります。
最初に個人として名前が登場する楡井頼仲という人が、松尾城の城主として居たことは分かっています。
楡井頼仲は、南北朝時代の南朝方の武将として活躍し、志布志の大慈寺という有名なお寺を創った人です。
それ以前の歴史は、肝付氏の配下が志布志城を治めていて攻撃されたことが、志布志城の記録で最初に出てきますので、大隅半島を広域に治めていたのは、現在の高山の肝付氏ということになります。
そのもっと前は、肝付氏ではなかったかもしれませんが、志布志湾一帯と串間の方まで含めて、大きく肝付氏が所領していたということになります。

【江戸時代に志布志城は武士団の精神的なシンボルだった】

中世の山城は、江戸時代に入ってから1国1条例がなされて廃城になりました。しかし、志布志城の周りの武士団にとっては、精神的なシンボルになっていましたので、江戸時代にもお祭りがあったみたいです。
その証として発掘調査の中で、江戸時代に作られた石の階段が出てきました。
下の廓から上の廓まで階段が設置されて、ここでお祭りがされるときには階段を利用して、それなりの人の出入りがあったことになります。

【あとがき】

志布志城が、いつ頃どんな経緯で築かれ、利用され、現在に至っているのかを知ることができてよかったと思います。